伊能忠敬に会ってきた!?

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 お盆を利用して、千葉県佐原にある「伊能忠敬記念館」を訪ねてきました。台風の影響で、豪雨や新幹線の運休など、とても心配だったのですが、不思議と傘いらず、新幹線も何ら混雑もなく、スムーズな旅を満喫することができました。

 なぜここを訪れたかと言いますと、龍馬と忠敬の存在が、私の校長退職後の生き方に示唆を与えてくれたからです。龍馬は、脱藩してニッポンのために全国をかけ回り新しいニッポンの姿を提示した。伊能忠敬は、定年後、大好きな天文学を学び直して、地球の緯度1度分の距離を導き出し、地球1周分の距離を算出するために地図づくりを手がけていった。

 この〝脱藩〟=〝公務員からの脱出〟と〝好きなことの学び直し〟=〝ワクワクした学校づくりへの応援+ニッポンが好きになる歴史の学び直し〟が重なり、現在の松下教育研究所が産声を上げたというわけです。

 伊能忠敬は、伊能家に17歳で婿養子に入ります。昔から佐原で酒造業を営んでいましたが、赤字続きの火だるま経営・・・。そこへ忠敬が婿養子に入るや否や、何と収益が3~4倍にも上がる大酒屋にまで成長させました。この経営手腕は大したものだと思います。下の写真が、伊能家旧家跡地です。

 地図づくりに至る前の段階で、彼は定年とさだめた50歳になるまで、きちんと生家の生業を経営し、それだけでなく、天明の大飢饉のときは、生家の米蔵を開け、店の収益も避難民のために無償で提供しました。この献身的な忠敬の生きざまは、あまり知られておりません。

 定年後、天文学を19歳年下の高橋至時に師事し、5年後に測量の旅に出ます。身分差別の厳しい江戸時代の当時、一般の商人あがりが、全国を旅して幕府の許しを得ながら地図をつくることなんて到底できるはずもありませんでした。まるで小学校の学童野球少年が、大リーグのチームでプレーするようなもんですからね。

 そこは、天文学者・高橋至時とその仲間たちの奔走や忠敬の天明の大飢饉での献身的な活動のアピールを幕府にすることで、やっとのことで地図づくりの許可がおり、実施することができたそうです。

 しかし、この地図づくりの運営資金の8割が伊能忠敬持ちだった、ということもこの記念館を訪ねて初めて知りました。そこまでしてでもやろうという彼の使命感というか、当時の天文学の謎の解明(緯度1度分の距離の解明)を果たしたいという強い想いを感じ、心の中が改めて熱くなりました。

 電車を一本分、間違えたため、この地にはわずか20分間しか滞在できず、あわてて佐原駅まで立ち戻りました(悔しい~)。

 次来るときはもっとじっくり滞在して、伊能忠敬の息吹を感じ取っていきたいと心から思いました。

 伊能家の周りの風景、そして佐原駅の写真もご覧ください。なかなか素敵なところでした♪もっとゆっくり回りたかったなぁ~(´∀`*)

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