自分の言葉で教育を語る教師の復活!?

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 東京大学名誉教授の佐藤学氏は、次のように現在の教育現場の教師を憂いています。

 「今の教師は、教育を語る自分の言葉を失っている・・・まさに〝教育失語症〟と言える。」

 なかなか衝撃的な警鐘かと思います。今の教育現場を回っていると、次の言葉が飛び交っていると氏は言います。

 〝令和の日本型学校教育〟〝主体的で対話的で深い学び〟〝個別最適な学びと協働的な学びの一体的な充実〟・・・など、文科省の推奨言葉のオンパレードが続くばかりで、教師自身の実感と経験に基づいたリアルな言葉が希薄になってきている、と氏は憂えているのです。

 行政的な文言や言葉が過剰に浸透すると、自らの教育を語る言葉を喪失し、実践のリアルさがうつろになると氏は主張しています。

 私は、現役時代、サークルに所属していたので、先輩諸氏から、多くの生きた実践の言葉を学んできました。そこで飛び交う言葉を少し上げてみます。

 「1時間に見せる資料は3つまで!」

 「必然性のある問いを出さないと、子どもは動かない」

 「教師になれたと思う瞬間は、子どもを〝愛しい〟と思えた時だ!」 ・・・ etc.

 具体的な実践を積み上げて得られた光る言葉が、サークル内では飛び交っていました。そして、その言葉を胸に刻んで、実践してきたという自負が、自分にはあります。

 佐藤学氏は、その姿が希薄になっているのではないかと警鐘を鳴らし、次のように推奨しています。

 「今、教室の小さな物語を語り合うことを、すべての教師に推奨したい。教師の内側の豊かな言葉は、教室の物語を語り合うことで、紡ぎ出される。」

 働き方改革で、教室の物語を語り合う時間すらない現実がありますが、実践に裏打ちされた〝自分の言葉〟を持つことは、確かに大切であると、私も思います。日々の教室で展開される活動や物語を管理職や先輩諸氏が見て、アドバイスや助言をする時、どれだけ〝自分の言葉〟で語れるか、にかかっていると私は思います。

            自分の実践を自分の言葉で語れる教師の輩出

 少しぜいたくな目標かもしれませんが、今後、豊かな教育を創り出すには、これからの必須の要件であると私は思います。教育関係者諸氏は、いかが思われますでしょうか。

 

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